うさぎの蝶番

※個人の感想です

漫画版『山羊座の友人』で再認識した小説と漫画の境界線

原作:乙一、漫画:ミヨカワ将の『山羊座の友人』が最終回を迎えた。電子書籍アプリ(?)少年ジャンプ+で連載していたこの作品は昨年10月にスタートしていて、長いこと追いかけてきたように思っていたが、実際の話数は7と少なかった。そういえば月1更新だった。しかし、決してマイナスな印象を抱いたという訳ではなく、むしろぎっしりと様々な物が詰まったおすすめ作品であると記しておく。

 

以下、この作品のネタバレになりそうな単語のオンパレードになります。

 

第1話を読んだとき、「ああ、まさに乙一ワールドだ」とまず思った。登場人物、設定、ストーリーの展開の仕方、伏線の貼り方、単調でも大袈裟でもない適切なレベルを保った比喩表現。わたしが初めて触れた彼の作品『Calling You』を読んだ時の感覚を思い出した。

 

毎回思うことだが、わたしは物語を読んでいるときと読み終わって現実世界に戻ってきたときでは、頭で感じる時間の流れる速さが異なる気がする。例えるならば、浦島太郎の世界の竜宮城と元の世界や、ブラックホールの説明で用いられる2階の住人と1階の住人のような物なのかもしれない。

物語の中と外、どちらの方が時間が早く流れるかというのは読んでいる物に依るとしか言えないのだが、ミヨカワ将氏は乙一ワールドの時間の流れる速さを忠実に再現していると思う。もし再び漫画化企画があれば、是非ともこのコンビで読んでみたい。まだまだ単行本未収録作品もあることだし。

 

ここまでひたすら絶賛してきた漫画版『山羊座の友人』だが、最後の最後、第7話でモヤモヤとした違和感が残ってしまった。

主人公:松田ユウヤが「(真相が分かった)あのとき、本庄マナミと話すために彼女を屋上に連れて行かなければ良かったのか」と吐露し、それに対し若槻ナオトが「本庄さんは松田くんといるときだけは 普通の高校生活をおくっていたんだよ」と返すまでの流れ。絵面的には、その言葉で主人公の迷いが完全とは言わずとも吹っ切れたように描かれている。しかし、読者のわたしはそこで、今まで入り込めていた世界からポイッと放り出されたような感覚に陥ってしまった。同じ速度で並んで歩いていた友人が、突然走りだして一人取り残された感じにも似ている気がする。

ラスト自体に不満を感じたわけではない。別の乙一作品でも似たような後味を感じた記憶はあるが、それに不満を覚えたわけではない。彼の作品は、いかにも【優等生らしい】終わり方はしないのだから。

恐らく、文字のみで構成された『山羊座の友人』では、わたしは今回のような感想を持つことは無かっただろう。小説版ラストの流れがグラデーションならば、漫画版は色と色との境目がはっきりと分かってしまうストライプと言ったところか。つまりは、主人公の心の動きに正しい速度で着いて行けなかったのだ。

 

恐らく、ここでわたしは記事タイトルに書いた【小説と漫画の境界線】を目にしたのだろう。

小説ならば、会話と会話の間に挟む情景描写などを利用して、読者を登場人物の気持ちが変化する波に上手く乗せることが出来る。しかし、漫画はそうはいかない。基本的に場所や人物の動きなどは絵で語り、文字の使用は台詞やモノローグなどの最低限に留める必要がある。これらの差が、私にラストモヤモヤを与えたのではないかと考えている。

 

…と最終話の一部分を酷評してしまったが、全体的にはとても面白い作品だと思う。伏線となる台詞やコマが「わたしは謎解きには一切関係ございません」とでも言うような顔でいくつも居座っているので、小説同様、物語が進むにつれて「あのときのあれか!」とヒントを拾いにかつて読んだページに戻る作業が楽しめる。

 

そんな漫画版『山羊座の友人』は6月4日発売だそうです。